学歴も宗教も解を与えてくれない(今のところ)アンパンマンの質問【3】

 

目的は手段に先んじてあるべきだと言われるけれど

人生の場合、意味と存在はどちらが先なんだろう?

ニワトリと卵問題です。

 

 

ハワイでキリスト教の信仰を得て

自分なりに人生の真理を掴めたと思っていました。

神様は私を完全に一つの個として作られたから

他人と比較する必要はないし

自分の存在は行いによらず肯定されると知った。

 

ただ、やっぱり、ハワイの環境は特別でした。

島々は自然に恵まれていて、

住民たちは太陽の下生きることをただ楽しんでいて、

私自身も休学中の自由な身分で、

ただそこに「在る」だけの自分を認められる場所だった。

 

けれども、日本に帰ってくれば、毎日は私の日常で

私の人生の真ん中の道に戻ったような。

戻ってきてからもしばらくは

休学中に与えられたエネルギーを廻しつつ

日本の教会でハワイとは異なる説教や解釈に感銘を受けつつ

それなりに前向きに過ごせていたのだけれど

1年半経ったころ、

多分就職活動の準備が始まったことがきっかけ、

キリスト教にはこの世でどのように生きるべきかに関する真理があって

確かに聖書で示されるものに従って

日々を生きられるようになりたいと思えるけれど

そもそもその前提として、

なぜ私たち人間は生きなければいけないのか?

という問いに対する答えが分からなくなった。

 

キリスト教としてのその回答は(私が知っている限り)

原始に、父、御子、御霊があって、

その三位は一体で、そこには愛が満ち溢れていて

それをより広げたいと、

神自身の御姿に似た者として人間は作られました。

 

でも、それだけを理由に生きるには、

人生は長いし、辛いことが多いし、

そんなに喜びに溢れたものではない、というのが

今の思いです

 

でも、それがとても傲慢な思いなことは

頭では分かっているのだけれど

衣食住に困ることはなくて

体は健康で

家族がいて

それがいかに恵まれていることか

それでもこなすだけの毎日、

これを積み重ねたその先に何があるのか、

満足できる答えが得られるのか、

 

この間、尊敬する人がくれた言葉。

神様は生きておられます。そして決してあなたを孤独にしたままでおられません。

 

終着点はどこにあるのか。

ちゃんと聖書に耳を傾けて

この苦しみを神さまに向けていければいいと思う

(2016年11月)

ヤコブ1:21

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。