キリスト教と信仰とか、幼稚園と英語教育とか。

1匹の子ひつじと、発達障がいのL君のはなし

今日、ツイッターを開いていたら、あるツイートが目に入ってきました。

「なぜフローレンスは”障害”と書くのか」

それは、障害は、個人に属する性質ではなくて、社会の側にあるものだからということでした。

なるほど、ととても納得できて、同時に、発達障がいをもつL君(※ここではそれでも一応「障がい」と表記します。)のことを思い出しました。

 

なので以下の原稿を載せてみます。

L君に教えてもらったことを書いた文章です。

 

ちなみに、この原稿で心に留めておきたいなと思うのは二つ。

一つは、発達障がいは二者以上の双方向のコミュニケーションの中で生まれるものだということ。一方の課題ではないということ。

もう一つ、去年一年間幼稚園で働いてからこの文章を読み返して気付いたのは、子どもとの信頼関係はある日突然姿を表すということ。

幼稚園にはしーちゃんという女の子がいました。やんちゃ娘で部屋からはしょっちゅう脱走する、手のかかる子でした。ただその自由でまっすぐな姿はとても可愛くて、毎朝みかけては「おはよう!」って声掛けてみたり、抱っこしてみたり。それでもなかなか反応してくれない子でした。

そんなことを2週間くらい繰り返していたある日。自由時間に私が園庭を眺めながら座っていると、突然しーちゃんが背中に飛び乗ってきました。今まで、いくらちょっかい出してもウンともスンとも答えてくれなかったのに!笑。それからは会うたびに「かたのせて!」。天使か。笑

 

しーちゃんだけじゃなくて、みなとも、はなちゃんも、うーちゃんも、みんなそんな感じだった。

何度も話しかけて、何度も頭を撫でて。

その球は、すぐには打ち返してくれないけれど、確かに少しずつ子どもたちの心の中に蓄積されていて、ある時、ラインを超えると、精一杯の信頼を置いて体重を任せてきてくれる。本当にその重みの尊さ、愛らしさ。

 

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早朝祈祷会原稿『1匹の羊の、応答について』

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おはようございます。初めに近況報告をすると、先週、フラの発表会と、ウガンダからのNPOのコンサートのお手伝いが終わって、一昨日、ゼミ発表が終わって、ここ1ヶ月くらいの間で、やっと、ドタバタが落ち着いた気分です。

今朝は、10月の聖書研究の箇所、1匹の羊のはなしを読んでいて思い出したことがあったので、それについて話させてください。

以前の早祷の近況報告で触れた気もするのですが、8月9月、文京区の教育支援センターというところで臨時のアルバイトをしていました。湯島の医学部の門の近くに、今年の4月に新しく建設された建物で、その中の、児童発達支援センターに行っていました。

ここには、発達障がいを持っている4-5歳の子どもたちが、15人程、毎日通園しています。

 

ここでアルバイトをしようと思ったのには2つ理由がありました。

1つは、妹が、ADHD(注意・欠陥障がい)を持っていることでした。予定外のことが起きると困惑してしまうのと、学習障がいがあるのですが、両親がそのことに気づき始めたのは小学校入ってからで、つまり一見わかりにくいです。そのため、私も、あまり妹に、障がいと言うものを意識して接してこなくて、最近になってやっと、私の理解が浅かったためにたくさん傷つけてきてしまってきただろうなということを、今更ながら、知らしめられたからでした。

そして、もう一つは、来年から、乳幼児教育の現場に出るのを決めたことです。先日、Cさんも話されていましたが、最近、そういう傾向を持った人が増えているとされています。もしかしたら、それは、今まで単に一つの性格とされていたものが病気として認識されるようになっただけに過ぎないかもしれませんが、社会心理学の分野でもそのような現状理解があるようなので、社会全体としてやはりそういう傾向にあるのかもしれません。

そのアルバイトを決めたのは、以上の2つの理由からでした。

 

支援センターでの1日の流れは、朝8:30に行って準備して、9:30に子どもたちを迎えます。

午前中は朝の集まりと造形があって、お昼ごはんを食べて、午後は歌や体を動かす遊びをするのが基本的な動きでした。クラスは年齢ごとに分かれていて、1クラス8人、大人は最低でも5人で多い時は8人、つまり子ども1人に対して大人1人がいました。それで、日ごとに担当の子がいて、1日を通して特にその子と長く接します。

ご存知の方も多いかもしれませんが、発達障がいと一言で言っても程度やタイプの差はとてもそれぞれで、ただ共通の点として、コミュニケーションが苦手とされています。そのことは私も知識としては知っていて、また今までも何人か、発達障がいを持つ方と接してきたことはありましたが、やはり支援センターにいる子は程度が大きい子が多いようで、初日は少しびっくりしてしまいました。

視線の方向はこちらを見ていても目が合っている感覚がなかったり、ずっと宙を見ていたり。

何を思ったり考えていたりするのかが、なかなかつかめない子もいて、戸惑ってしまいました。ただ、Cさんが話されたときにYさんが、コミュニケーションはそもそも相互作用で、だから「一方が苦手」と捉えるのは誤りだとおっしゃっていたのですが、確かにその通りで。

私がその子たちの世界の捉え方を知ろうとした時、日数が経つにつれ、少しずつ、その子たちの表情や言葉が、読み取れるようになりました。

とても嬉しかったです。

ある日の私の担当は、Lくんと言う4歳の、目がくりっとした男の子でした。その子の担当になるのは2回目だったのですが、あまり言葉を発さなくて、お化けでも見えてるのかな、と思うくらい時々じーっと天井を見て、手で何かをつかもうとすることがあったりしました。

ぐずったり、自由時間に気づくとどっか行ってしまったりということは無く、基本的には手はかからなかったのですが、レオくんの大変なのは、お昼ごはんの時でした。

フォークやスプーンを使うのがイヤらしく、好きなものには、シュッと手を出してきます。お米などならまだいいのですが、スープにも手を入れようとしてくるので、気が抜けません。

一方で、きらいなものはなかなか食べようとしてくれなくて、野菜とかは小さく刻んでお肉の中に混ぜてみたりします。ただ、見た目で騙しても口の中で気づくと顔をしかめるので、とても申し訳ないなと思いつつ、でもその顔がかわいいので愛おしく思いつつも、ごはんを終えるのに、その日も1時間近くかかってしまいました。

午後の初めは自由時間なので、子どもたちはごはんを食べ終えると、リーダーの先生に、「大きいおへやに行ってもいいですか」と尋ねに行くことになっています。それで、Lくんも尋ねに行って、発音が苦手なので、「いいですか」しか言えないのですが、で、言った後、言ったと同時に後ろを振り返って、照れるように、私の首に、すごい笑顔で抱きついてきてくれたんです。

それまで、話しかけても近くにいても、あまり私に対して反応してくれなくて、後、お昼ごはん中もなかなか言うこと聞いてくれなくて。

子どもたちが好まないものを半分無理矢理に食べさせるというのは、心苦しいし、意外と、忍耐力がいります。でも、ずっとそんな感じだったのに、急に私に対して笑顔を見せてくれたことは、とても驚きであり、とても嬉しい出来事でした。

 

マタイの18章を読んでいて思ったのは、神さまが、1匹の羊を見つけた時、つまりそれは、羊が神さまに対して応答をした時だと解釈しているのですが、その時の神さまの喜びというのは、もちろん大きさはまったく違っていても、種類としては、こんな喜びなのかなーということでした。

普段、私は頭を使って聖書を理解しようとしていますが、子どもたちと接していると、彼らは、聖書のみこころを、実感として、教えてくれます。尊い存在だなと、改めて、思わされています。

 

もう一つ、この箇所から学んだことを付け加えさせてください。実は、この夏、結構人生に迷っていて、20半ばも近づいてきているのに未だにモラトリアムですが、ずっと、日々も人生もそこそこだなーと感じていました。さっきお話ししたような、喜びとかはそれなりにあったのですが、それがその先への期待や楽しみに続かなくて、日々鬱々に感じていました。

人生には、確かにプラスがあって、でも同時にマイナスもあって、どうして私がそれを経験しなければいけないのか納得がいきませんでした。

神さまが、地上で御国を実現するために私を作ったのは分かるけれど、そもそもなぜ私がそのプロジェクトに参加しなければいけないのか分からないし、9月中は特に、私を作るとかほんとにいい迷惑だ、との思いが強かったです。

失われた羊のたとえ話を読んでいて思わされたのは、山に残されたのは、100匹ではなく99匹だったことです。それは1匹が戻ってきて、100という一つの整った数字になることでした。その、み国を実現するというプロジェクトも、そのように計画されているのかもしれないです。ただ、私は、63億分の1で、私自身の数字のスケール感覚から言うと、それは、十分に小さい、無視可能な値なのですが、神さまにとっては、十分大きな値なのかなーと納得しようとしています。

それはまだ全然感覚として理解できなくて、自分の存在に対する疑問からも抜け出し切れないですが、こういう小さな気づきが積み重なった時、ある日一段上へ上がれるのかもしれないです。

そうは言いつつも、多分、また、鬱々したりしちゃうんだろうな、と思っています。感情に流されないようにしたいです。頭では分かっていても、心では掴みきれないことが多いから、信仰というのは、ほんとうに、付き合うのは大変だなーと改めて思わされています。

 

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