カウンセリング3回目を終えた

1月頭から、カウンセリングに行きはじめた。

行こうと思ったきっかけは、弟がしてくれたアズサの女の子の話。

 

昨日、3回目だった。

今は1週間に1度のカウンセリングの時間が、私の頼りになっています。

本当にあたたかい時間。なにも警戒しなくてよい空間。

 

カウンセリングは、1回2時間。

基本的には

前半は処方的な話をして(今は自分の取り扱い説明書を作る作業をしている)

後半は脈絡なくポツポツ話す。

 

今までも信仰で、自由意志で選択することで、聖霊を求めることで、

この苦しみから脱却しようとしてきたけれど、

自分の精神力に頼って

自分から何かを求めようとするのはつかれてしまってた。

 

そんな中、カウンセリングが救いになってくれたのは、

科学的・物理的な脱却方法を教えてくれること。

遺伝や現代社会の枠組みから自分を観ること。

つまり、問題の要因を自分の内側から外側へ移動させてくれたこと。

サプリを飲む、ルーティンを作る、身体を温める、とか。

 

ただ、同時に、とても個人的な心の部分にも寄り添ってもらえる。

 

なぜ人は課せられた人生を生きなければいけないのか。

 

誰も頼んでいないのに、

いのちを与えた神さまへの怒り、

私を産んだ両親への怒り。

 

このはなしをしているときに教えてもらった動画。

 

U2のBonoとアメリカの神学者 Eugene Petesonの対話。

 

www.youtube.com

 

 Praying cannot be nice before God.

It's not smooth, pretty, or nice.

 

Truth, that is what God wants,

explosure of joy, deep sorrow, and confusion.

 

 

あれだけの思慮深さ。

分野が違う2人の言葉が一点の真理に近付いていくこと、

そのプロセスのひたむきさ、確かさ。

 

 

 

学歴も宗教も解を与えてくれない(今のところ)アンパンマンの質問【3】

 

目的は手段に先んじてあるべきだと言われるけれど

人生の場合、意味と存在はどちらが先なんだろう?

ニワトリと卵問題です。

 

 

ハワイでキリスト教の信仰を得て

自分なりに人生の真理を掴めたと思っていました。

神様は私を完全に一つの個として作られたから

他人と比較する必要はないし

自分の存在は行いによらず肯定されると知った。

 

ただ、やっぱり、ハワイの環境は特別でした。

島々は自然に恵まれていて、

住民たちは太陽の下生きることをただ楽しんでいて、

私自身も休学中の自由な身分で、

ただそこに「在る」だけの自分を認められる場所だった。

 

けれども、日本に帰ってくれば、毎日は私の日常で

私の人生の真ん中の道に戻ったような。

戻ってきてからもしばらくは

休学中に与えられたエネルギーを廻しつつ

日本の教会でハワイとは異なる説教や解釈に感銘を受けつつ

それなりに前向きに過ごせていたのだけれど

1年半経ったころ、

多分就職活動の準備が始まったことがきっかけ、

キリスト教にはこの世でどのように生きるべきかに関する真理があって

確かに聖書で示されるものに従って

日々を生きられるようになりたいと思えるけれど

そもそもその前提として、

なぜ私たち人間は生きなければいけないのか?

という問いに対する答えが分からなくなった。

 

キリスト教としてのその回答は(私が知っている限り)

原始に、父、御子、御霊があって、

その三位は一体で、そこには愛が満ち溢れていて

それをより広げたいと、

神自身の御姿に似た者として人間は作られました。

 

でも、それだけを理由に生きるには、

人生は長いし、辛いことが多いし、

そんなに喜びに溢れたものではない、というのが

今の思いです

 

でも、それがとても傲慢な思いなことは

頭では分かっているのだけれど

衣食住に困ることはなくて

体は健康で

家族がいて

それがいかに恵まれていることか

それでもこなすだけの毎日、

これを積み重ねたその先に何があるのか、

満足できる答えが得られるのか、

 

この間、尊敬する人がくれた言葉。

神様は生きておられます。そして決してあなたを孤独にしたままでおられません。

 

終着点はどこにあるのか。

ちゃんと聖書に耳を傾けて

この苦しみを神さまに向けていければいいと思う

(2016年11月)

ヤコブ1:21

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

 

学歴も宗教も解を与えてくれない(今のところ)アンパンマンの質問【2】

 

人生の目的はどこにあるのか。

前の続き。

 

 

大学で私なりに挫折して

自己嫌悪スパイラルで

自分がその時所属していた社会とのつながりを切りたいのだけれど

その方法を前向きに考えられる体力もなかった時

母親が「これ行く?」とハワイの学校を紹介してくれました。

(海外という選択肢を提示してくれるほどに親の心とお金の余裕があったことは大分恵まれてる、その点は自覚してる)

 

それはキリスト教の団体が運営する学校で

聖書の勉強とボランティア活動が組み合わされた

6ヶ月のプログラムでした。

実はこの頃キリスト教が苦手でした。

むしろ嫌悪感を抱いてたとも言えたり。

 

小学校からカトリックのミッションスクールに通っていたので

聖書の授業や讃美歌にはそれなりに親しんできて

嫌いではなかったけれど

私が高校生の頃両親が近所のプロテスタントの教会に通い始めて

私も何度か礼拝に行ったことがあったけれど

プロテスタントの型のない自由なお祈りの形や

信者の人たちがセキララに自分の思いを共有する空気が

私には合わなかったこと。

それと、母が創造論を支持するのだけれど、

ちょうど受験生物で進化論を学んで

さらに最高学府と呼ばれる学校にいて(当時は宗教と科学は相反すると思っていた)

そこに居ることに自分の価値を見出していた私は、

母が進化論を否定することが

私自身を否定されているように思ってしまっていたわけです。

(精神的にも親から本当に自立できていない大学生だった。)

 

ただ、その時はとりあえず日本を離れられるなら何でも良くて

英語会話能力もTOEFLスコアとか要らないと聞いて

即そのハワイの学校に行くことを決断しました。

 

ただ、行ってみたら思っていたよりしっかりキリスト教で。

毎日聖書を読んで、お祈りして、

ボランティア活動も宣教活動の一環として求められていました。

ハワイはスピリチュアル性が強い島でもあったので

異言と呼ばれる言葉をしゃべる人がいたり

天使が見えるという人がいたり

戸惑った部分もあったけれど

それ以上に一緒にいたチームの皆が

社会的な価値での装飾が無い私をただの個人として受け止めて

仲良くしてくれたことが幸せでした。

 

そんなこんなで半年間ハワイの島を回りながら過ごして

その年の終わりにはキリスト教を信仰することを決めました。

聖書の記載内容をすべて事実として受け止めることはまだ難しかったけれど

決心のきっかけは2つ。

一つは周囲の友達の価値観とそれに基づいた生き方を見ていて、

私もそのように生きたいと思うようになっていたこと。

もう一つは、過去2000年以上不変に受け継がれて普遍に信じられてきて

私よりずっと優秀な人たちがそこに真理があると認めてきたものならば

残りの人生、真理の探究をそこに賭けてみてもいいかもしれないと思ったこと。

 

そうして洗礼を受けました。

 

この時は、私は人生で頼るべき指針を掴めた、

この信仰から離れなければ ちゃんと生きていけると思いました。

 

キリスト教の私が魅かれているところは、

他の宗教はわからないので比較結果ではないけれど

すべての根源が創造主にあるという考え方。

それまで私は自分にばかり目を向けてしまっていました。

自分はこうありたい、自分はあの知人に対してこう劣っている、

その自己中心的な価値基準の傲慢さを指摘して

手放すことを教えてくれたことは

すこしこの世界を生き易くしてくれました。

 

ただこの信仰はハワイという非日常で得られたもので

日本に帰って来てからそれを日常生活に当てはめる作業が必要でした。

 

そして今はまだその壁を乗り越えられずにいます。

 

[続く]